仕事の昼休み、元気なラーメン屋に行った。
その店は毎日行列ができるほどの人気店で、元気のいい店員たちが笑顔で働いている、とても雰囲気のいい店だ。
食券機の列に並び、食券機のボタンをチラチラ見ながらどれを頼むか考える。
混んでて滅多に来れないラーメン屋だし、1番おすすめと書いてある特盛ラーメンにしようと心に決めた。
前に並んでいた同い年くらいの女性も私と同じ特盛ラーメンを押していた。
私の番だ。1150円の特盛ラーメンに1200円投入し、お釣りをとった。しかし、手の中には50円玉が2枚ある。
この50円玉、前の女性が取り忘れたのだろう。たしか、食券機に同じく1200円入れていた気がする。
店員に食券を渡すと、前に並んでいた女性の隣の席に案内された。
ちょうどよかった。
席に座るより先に、女性に「お釣り忘れてましたよ。」と50円を渡したところ「あ!ありがとうございます!」とキラキラした笑顔で受け取ってくれた。
あまりに感謝の伝わる笑顔だったので、私も「いえいえ。」と、そういうことありますよね、私もうっかりしてるときあります、というヘラっとしながらも愛のある笑顔を返した。
まだそこにいた店員も仏のような顔で、私たちの一部始終を眺めている。
これは大きさこそ小さいけど、確かに幸せな時間だ。
当たり前のことをしたまでだけど、知らない人と良いふれあいをして、しっかりいい日だなと感じる。
毎日、こんな感じで小さくても確かな幸せを感じながら生きていけたら良いよなぁと思いながら、特盛ラーメンを待った。
私の特盛ラーメンと隣の女性の特盛ラーメンは同じタイミングで来た。
私は自分の前に置かれた特盛を見て違和感を覚える。
特盛……にしては具材が少ない。
チャーシューが2枚と玉子が1個だ。
たしかに盛られてはいるけど、特ではないだろと思った。
食券機に貼られていた特盛の写真を思い出そうにも、細かいところまではわからない。
ただ玉子1個ではなかった、気がする。
錯覚かもしれないけど、隣の女性の特盛にはチャーシューが4枚と玉子が2個ある、ように見える。いや、チャーシューの個体差かもしれない。確かではない。目も悪いし。でもそう見える。
これ本当に特盛なのだろうかと思い、店員を呼び止めようとしたら、喉の奥が微かに、あ、と鳴った。
言ったのではなく、鳴った。
まるで、言いたい自分と言いたくない自分がせめぎ合った結果のような、空気に溶けていくような音だった。
そうだ、言えないのだ。今、私はいい人だから。
50円玉を渡してはにかみあったことで私のことを「いい人」認定した女性が隣にいるし、狭い店内で一部始終を見ていた店員や他のお客さんだって「へ〜いい人じゃん。」くらいには思ってる。
いい人とされたのに「これって本当に特盛ですか?」なんて聞けない。
その答えに関係なく「いい人」から「特盛かどうかを疑う人」になるからだ。
言えない。
店内も混んできて忙しそうだし、なおさら言えない。
いい人ってなんだろうか。
そんなわけで何も言わずに完食した。
まぁこういうこともある。
こういう、小さいけど、確かな不幸。
しっかりと感じて、店を後にした。