私は介護を何も知らない

母方のばあちゃんは認知症だ。

 

3年前に、突然じいちゃんのことだけわからなくなった。

昨日まで一緒にいて、存在を分かっていたのに、突然「誰?」となってしまい一家大騒ぎになった。

 

私は実家に住む姉からその事件の連絡をもらった時、怖いと思った。

病気のこともそうだし、家族が深刻になってしまうんじゃないかと思って怖かった。

こういう不幸(と言っていいかわからないけど)が直面してしまった家族を見るのが怖いと思った。

 

でも、実家に帰ったら何もわからない不安そうなばあちゃんと、「も〜じいちゃんだけわからないなんて困ったな〜」というあっさりしてるようであっさりしてなきゃいられないような家族たちがいた。

 

この家族は楽観的な方向性で行くんだなと思って安心した。

 

ばあちゃんの症状は、今一緒に住んでいるじいちゃんが誰だかわからない。けれど昔の写真を見せると、「これはじいちゃんだね」と言う。

 

写真の中のじいちゃんと、隣に存在しているじいちゃんはほぼほぼ一緒の見た目なのに、ばあちゃんの中ではそれが認められないのだ。

 

今存在しているじいちゃんを「知らない人」と言うばあちゃんを、しばらく実家で預かり母と姉が様子を見てくれることになった。

 

ばあちゃんは、母を含めた子供達や、姉や私のような孫のこともわかるのだ。

でも、1番近くにずっといたはずのじいちゃんだけ、本当にぽっかり穴が空いたようにわからない。

 

こんなことがあるんだなぁと思った。

ばあちゃんはアルツハイマー型とは少し違う、レビー小体型認知症というやつらしい。

レビー小体型は幻覚や幻聴が症状としてあって、ばあちゃんはそれが強く出ているらしい。

 

当のじいちゃんは、想像できないほど辛いんだろうけど「どうしたもんかなぁ」と言って、戸惑いながらもあっけらかんとしていた。

言葉にしようとしても何かがこぼれ落ちてしまいそうな、私には全て感じることすらできない連れ合いを思う雰囲気があった。

 

いろいろと事情があり、ばあちゃんをずっと実家で預かるわけにもいかなかった。しばらくしてばあちゃんは「知らない人」であるじいちゃんとの2人暮らしに戻った。

 

この2人暮らしの3年間は事件だらけだった。

ばあちゃんは妄想の症状が激しくなると、「家の中に知らない人がいる」「知らない人に暴力を振るわれている」と泣きながら東京に住む母に電話をしてきた。

 

夜に布団をかけてくれたじいちゃんのことをキッと睨んだり、家に知らない人がいるからと勝手に外に出て徘徊してしまうこともあった。

 

それでもじいちゃんは「いなかったらいないで寂しいしさ」と言った。

じいちゃんは自分のことを知っているばあちゃんを失って、ばあちゃんはいるはずのじいちゃんを見失っていた。

 

母はじいちゃんやばあちゃんから電話があるたび、コロナ禍で身動きが取りづらい時も地元に帰って世話をした。

近くに住む姉は時々様子を見に行ってくれたり、病院の送り迎えをしてくれた。

 

深刻そうに書いたけど、家族はずっと「そうなっちゃったらしょうがないよね精神」だった。

だから私も流れに身を任せる風にした。

 

姉から「笑っちゃだめだけど、じいちゃんの家いったら、じいちゃんが私は〇〇(じいちゃんの名前)です。って書いた名札貼って生活してた笑」ってラインが来た時はおかしくて笑った。

腫れ物に触るようにしていたのは、私だけなのかもしれない。

 

それからじいちゃんが胃がんになった。

自分のことがわからないばあちゃんの介護も相当な心労で「もう死んでしまいたい」とまで言った。

またどうしていいかわからなくなった。

 

私は不幸がないことが幸せで、不幸が降りかからないことだけを願っていたから、いざ不幸が落ちてきた時にちゃんと受け入れることができない。

 

受け入れることができないから、じいちゃんやばあちゃんをすぐに助けることもできなかった。

姉は近くに住んでいることもあり現実を見ていて、介護に疲れたじいちゃんの愚痴を聞く会を開いてくれていた。

 

それからコロナが治まり私も久しぶりに地元に帰った。

じいちゃんとばあちゃんに会うのは3年ぶりだった。

2人とも私の記憶の中より弱って小さくなっていたけど、思ったより元気だった。

私はじいちゃんと、また夏に畑の野菜を食べにくるねと約束をした。

じいちゃんは自慢の畑を私に案内してくれた。私は気づいたら動画を回していた。植えたての畑の野菜を紹介するじいちゃんは、私はトマトが好きだという10年以上も前の記憶のままだった。

そして、私にできるのは会いにくることだと痛いほど思った。

 

どんなに周りがいいことをしても、症状が良くなることはなく、母はとにかく大変そうだった。

月に一度は地元に帰り、じいちゃんとばあちゃんを少しでも楽に、息抜きさせようと尽力した。

 

それでも毎日のようにじいちゃんやばあちゃんからかかってくるSOSの電話には、母も疲労困憊していた。

東京にいる私はそんな母の話を聞く役だった。

 

今日はこんな妄想をしていて困った、この前はこんな幻聴を聞いていた、突然変なことを言い出した、妄想と現実が分かってなくて困るというばあちゃんの症状から、母の兄弟が介護を真剣に考えてくれない、思うほど手伝ってくれないという愚痴まで毎週聞いた。

 

母は元看護師で、結婚してからは町の保健師として町中のお年寄りの世話係をしてきた。

私が物心ついた時から、認知症や脳科学、介護の本を山ほど読んでいたし、ケアマネージャーの資格の勉強をしたり、ケアマネの学会の発表に向けて資料を作ったりしていた。

 

仕事の枠を飛び出して、地域の活動も意欲的にやっていた。

自ら市に企画書を出して町のお年寄りを集めて懐かしい遊びや頭の体操する会を開いたり、一人暮らしのお年寄りのためのお料理教室を開いたりしていた。

当時高校生の私は、それを手伝いに行ったこともあって、母は先生と呼ばれていた。

 

私がアラサーになっても母はまだ認知症が題材のドキュメンタリー映画を見たり、お年寄りに教えるんだと言って太極拳を習い始めたりしている。

その莫大な原動力はなんなんだ。

何がそんなに、母をそうさせるんだろう。

 

ある時、そんな母から、いつものようにばあちゃんの妄想の愚痴を聞いていた。

ざっくり言うとばあちゃんは「自分が学生の時に子供が3人いた」と言ったらしい。

母は「そんなことはありえない」と反論したけど、ばあちゃんは頑固に何回もそう言って聞かなかった。

母は何度も間違ってるよと言ってるのに、ばあちゃんは分からず屋で困ると言っていた。

 

私は、なんで母はばあちゃんの虚言を真に受けるんだろうと思って「ばあちゃんは数分すれば自分が言ったこと忘れるんだし、否定したり反論したりせずに、はいはいって話し合わせとけばいいじゃん。」と言った。

母が辛いなら本当にそうすればいいと思った。

 

母は「だって間違ってるんだもん。」と言った。

真面目な性格だから、正しくありたいのかなとその時は思った。

 

でも、何日か後に母はばあちゃんと向き合っているんじゃないかと思った。

認知症に包まれて、たとえ正しく理解ができないとしても、キチンと答えることで向き合っているのかなと思った。

 

言葉を選ばずに言ってしまえば、私の言った対応はばあちゃんを厄介な人みたいに扱っているのかもしれない。

本当のことを思い出して欲しいと思っていないというか、諦めてるような感じだ。

ばあちゃんが忘れていくことや妄想には我関せずという感じで、ばあちゃんではなく認知症の老人として接しているような気がする。

 

学生時代に介護施設に行った時にそんな対応を見たことがある。

未熟な私にはそう見えてしまっただけかもしれないけど。

その職員は「ある程度受け流す」対応をしていて、それはもちろん虚言かどうかすらわからないのもあるし、仕事というのもあるだろう。

勝手にそれが正解と思い込んでいたけど、きっと母の回答はそうじゃないのだ。

 

母は、認知症とどんな気持ちで向き合っているんだろう。

どんな思いで母親であるばあちゃんに接しているんだろう。

私は全く、母の気持ちも、介護のことも、認知症と向き合うことも、なにも分かっていなかった。

 

これからはもっと地元に帰ろう。

母のことも、ばあちゃんとじいちゃんのことも、認知症や介護のことも、もっと間近で見たいと思った。